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自分の世界に感謝

 投稿者:ふな  投稿日:2010年 7月21日(水)12時53分16秒
   大変長らく投稿しないのに、このサイトを継続してもらっていることに感謝します。

さて、この多世界の話ですが、最初に投稿したときからずっとその考えが変わることはあり

ません。

毎日生活しながら見るこの世界は、かけがえのない自分そのものの世界だなぁ・・という感

慨を持っています。

この見える空も通りも建物もすべて自分の世界を構成しているものばかりで、自分の世界に

属していないものは何もないからです。

美術館ですばらしい絵画を見ても、それは自分の所有ではないけれど、自分の世界に完全に

属しているのです。

もし、突然死ねば、空も通りも建物も、すばらしい絵画もすっぽりと消えてしまします。す

なわち、自分の世界が消えてしまうのです。

だから、目に見えるもの、聞こえる音、香りも、五感で感じるものは、すべて自分の世界な

のです。所有権はなくても、自分の世界として自由に持っているのです。

そういう宇宙の彼方まで自分の世界を所有していることはとても素晴らしいものです。

そう、この命が尽きるまで自分の世界を所有していることに幸福感が沸きあがってきます。


さて、人ひとりひとりに別の世界が与えられていると言ってきましたが、その世界は比較し

てみることはできないけれど、物質的にはほとんど同じ世界だと思います。A、B、Cと3

人居る世界で、バナナがひとつあったとします。Aがそのバナナを食べてしまったとする

と、Aの世界からは当然バナナは消えて無くなります。別の世界に居るはずのB、Cの世界

はどうなのか?。Bの世界からも、Cの世界からもそのバナナは消えて無くなります。

これが、物質的にはほとんど同じ世界だと言った意味です。

ただ、ここでAもBもCも別々の世界を持っているのです。

長らくこの考えを持ってきたため、今では何の違和感もない世界感なのです。

何を見ても、「これは、今、私の世界で起きていることなんだ!」と言い聞かせています。

だからと言って、生活が良くも悪くもなるようなものでなく、以前と何も変わっているわけ

ではありません。

ただ、今、目の前に展開している世界をそのまま受け入れて、ああ自分の世界を所有してい

られる喜びを感じるのです。
 
 

自分が見る世界

 投稿者:ふな  投稿日:2008年 9月18日(木)17時20分45秒
  「人それぞれ見る世界が違うんですよ」
という言葉は日常よく聞き、何の違和感もなく受け入れています。

そして考えます。
「そうか、世界は一つしか無いけれど、見方によっていろいろに見えてくるのだなぁ・・こころの在り方で、いろいろに見えるものなんだなぁ・・」と、納得してしまうのです。

ところが、この世界というのは、まったく同じような世界が無数にあるのですよと言えば、今は誰もそれを理解できないと思います。

物理学の量子論で、多世界ということを書いてあったので、私の言う世界のことかと期待して読んでみましたが、それは「一人の人間に一つの世界があるのですよ。」という話ではありませんでした。

私が言うのは、一つの世界が見る人によっていろいろに見えるのではなくて、いろいろに見える世界が、それぞれ人の数だけあるのですよ!ということです。

世界には、それぞれの価値観をもったいろいろな人がいます。
ブッシュ大統領、北朝鮮キムジョンイル総書記、オサマビンラディン、・・・

白昼ホウチョウを振りかざして、人を刺してしまう人・・

それぞれの人にそれぞれの世界が展開しているのです。
そしてそのそれぞれの世界は、お互いに透けて見えるので、同じ世界にいるのだと誰もが信じています。

オサマビンラディン、世界同時多発テロで地球世界を震撼させた人物。彼の持っている世界はどんなものか、想像困難です。彼のこころがどんなものかが分かりません。

「こころ」という言葉を人は頻繁に使います。
「こころ」は必ずあるものだと、人は確信しています。
ところが、それを見てみたいと思っても、こころそのものは見えてきません。

その人のこころは、その人の世界にくまなく行き渡っています。
だから、人それぞれに見える世界が違うのです。

たった一つしかない世界であったなら、60億人のこころがその一つの世界に充満します。
ひと一人づつに一つの世界が与えられていれば、一つの世界にそのひとのこころが広がります。

「こころの世界」とも言いますが、その人固有の世界のことです。
こころは、所作しぐさでも透けて見えたり、推測できたり、そうかと思うと全く分からないことがあり、分からないことの方が多いのものです。

誰にでも一つに見えるこの世界が、それぞれの人がそれぞれの世界を持っているので、類似はしているが、違う世界に生きている、ということです。

白昼犯罪を犯す人の世界は、どんなに暗いのでしょうか。
罪を憎みますが、その人のこころを行き渡らせたその人の世界にやり場のない悲しみを感じます。

私は、この「固有多世界論」を骨組みとした小説が書けたらいいのにと思っています。
それは、今までに決して無かったものになります。
というのは、この「固有多世界論」という考えは哲学の世界でも私の知るところ誰も言い出していないからです。

デカルトが、自分が存在するのは「考える」ことそのものである。と言ったのに匹敵する考えなのです。

哲学の世界で、私のこの考えを盗み取って先に発表されてはたまりません。
 

進化の世界

 投稿者:ふな  投稿日:2008年 8月31日(日)01時18分55秒
  夏休みのこども質問番組を朝やっている。
その中で、動物の進化の話をしていた。

どういう動物だったかは、うっかり聞き逃してしまったが、えさを捕り易くするのに、口などがそういう形になった。・・という回答だった。

この回答を聞いていて、とても不思議な気がした。
動物が、こういうふうにえさを捕りたいと思い続けていると、そのうちに口などがそういう形になる・・ということだった。

これは、思い続けていると形が変わるということであろう。
どのくらいの期間思い続けていればそうなるのだろうか?
一世代では絶対そのようなことは起こらないと思う。
二世代目の子供のときに突然変異するのだろうか?
これもあまり聞いたことのないことである。
そうでなければ、10世代、100世代子孫が同じことを思い続けているのだろうか?
知りたいのは、何世代思い続けていればよいのか?

こんな質問に出会ったことはない。
ただあいまいに、思い続けていれば口などえさを捕り易い形に変わる、と理解しているようだ。
考えててみれば、これは理解にはならない。

ここで、とても大切な教訓は、思い続けていれば形まで変わる、ということである。
人間について、善良なことを常に心に描いていれば、それなりになごやかな顔になり、
邪悪なことを考え続けていれば、見ても分かるような感じの悪い顔に変わっていく。

すべて人間の世の中のことは、人間の考えつづけていることの結果が現れている。
自分についても、自分が考え続けているのことの結果が現れている、ということになる。

さて、思い続けていれば、口などがえさを捕り易い形に変わるというのは、それは間違いである、
と主張する団体がある。

キリスト教のある団体は、旧約聖書の創世記から、すべては神が今ある形で世の中の送り出したものであって、進化で形が変わっていくということはない、と主張する。

さて、今日はこの思い続ければ身体の一部が変わっていくのか?という問題提起をしたのみで終わる。
 

独自の世界

 投稿者:ふな  投稿日:2008年 5月20日(火)23時05分7秒
  この掲示板を借りて、世界について考えてきた。
政治の世界では、いつの世も権力闘争が繰り返されている。
自民党と民主党の権力闘争には、気持ちが暗くなる。

ミヤンマーの軍事政権は被災した国民をどう救いたいのか。
中国の大地震は未曾有という言葉を使いたいほどの災害で、オリンピックなどやっていられるのか
心配だ。
ハリケーンや地震で亡くなるのと、病気で亡くなるのと、亡くなるという結果は同じである。

さて、人は必ず死ぬ。
生き物も必ず死ぬ。

生き物が死ぬと、有機質は拡散して無機質のみが残る。
化石がそうである。

ということは、世界にあふれている無機質は、生き物の残骸ということになる。
そして、これも世界にあふれている有機質は、生き物の前段階であるということになる。

この無機質と有機質を組み合わせる作業が生物の誕生である。
ところが、この組み合わせる作業こそ、巨大な謎なのだ。

キリスト教では、神である。
仏教では、因縁である。

私は因縁の方が、哲学的で好きである。
目もくらむばかりの膨大な組み合わせであり、それが基本的には寸分違わぬ精緻さをもってなされる。
すなわち、人の知恵では考えつかれない規模のものである。

だから、それは神業。
神にしかなし得ないことである。

一つの生き物を無機物と有機物を考えられない巧みさで組み合わせて作っても、それだけで生き物とはならない。
なぜか。
それは、その生き物の意思が備わっていないから。

その生き物に意思が備わるためには・・・。
その生き物に、世界を与えねばならない。
それは、命を与えると同じ意味になる。

ここで、人間について考えよう。
人間一人ひとりに世界が与えられている。
それぞれが、同一の世界と思っている。

確かに同一の世界で行動はできる。
ところが、一人ひとりは独自の世界を持っている。
そして、それは固有の世界なのだ。

これが、私のいう世界の考え方である。

今日、同窓生から、同級生が先物取引に失敗して自殺した者が居るらしい、と聞いた。
あの、同級生の中では独自の事業を起こし名士とも思っていたのに。

彼が亡くなったとすれば、彼の亡くなるまでのその期間の彼の世界はどんなに暗いものであったか。
他の者が同じ世界と思っていても、それは全く違うと考える。
彼にとって、その世界は、銀河系に達するまで暗さに満ちていただろう。

そして、彼は彼の世界を失ってしまった。
もう二度と同じ彼の世界をもつことはできない。

死とは、独自の世界を失うことである。
 

美しい

 投稿者:ふな  投稿日:2007年10月 8日(月)17時24分7秒
  「美しい日本」
これは、安部前首相がいつも言っていたことである。

ところが、彼から「美しい」ということの定義を聞いたことがなかった。
「美しい」といえば、日本人なら誰でも分かることだろう、というのが彼の考えることだったかも知れない。
日本の伝統的な美しさ、それを取り戻すことということだったように思われる。

さて、日本の伝統的な美しさについて少し考えてみよう。
例えば、日本舞踊。
日本舞踊についてよく知っているわけではないけれど、日本人ならば折にふれ見聞きしている。

どこが良いのか、それは動きに無駄のないことだと思っている。
無駄のないものは美しい。
剣術についてもしかり。
宮本武蔵は、刀の動きの一切の無駄を省こうと努力したと思う。

現代で言えば、大リーグのイチローのバットコントロール。
しなやかで、無駄がなく、打てて当然という感じの動きである。
そして、美しい。

イチローのバットは、力任せに振り回すといったアメリカ選手のような
豪快さはない。
しかし美しい、と私は思う。
力任せにホームランを量産する選手の動きも同じく無駄を省いていて美しいのは同じではある。

さて、ここで日本の伝統的な美しさを言うのであれば、無駄がないということに焦点を当てる
のが良いと思う。

日本はずっと以前から、資源の乏しい国柄ではある。
そこで、いろいろ工夫をしてその資源を有効に活かすことで心豊かな国にしてきた。

「お米の一粒も決して無駄にしてはいけませんよ!」
「食べ物を無駄にすると目がつぶれますよ!」

現在、こんなことを言う親も居なければ、それを聞かされる子供も居ない。

食料は自分の国で自給できないのに、日々捨てている食べ物の量は凄いらしい。
そして、そのことを何とも思わない人々である。
このことを美しいとは言わない、と私は切に思うのである。

地球温暖化防止の取り組みは、無駄を省く生活が美しさへの術の一つであろう。
もう一つはイノベーション。
(イノシシがアッカンベーして、木にションベンしている図ではない。(ーー;))
イノベーションも、美しさを求める結果だと思っている。

なぜか。
それは、人々の知恵と工夫によって新しい方法を考え出し、今よりも、またその今よりも
物づくりや、社会全体のシステムも含めて、無駄を省いていくことだからだ。

そうです。
安部さん、なぜ「美しい」ということの定義を示してくれなかったのですか?

「美しい日本」とは、「無駄のない日本」ということなのです。・・と
 

形を造る

 投稿者:ふな  投稿日:2006年 9月13日(水)00時00分1秒
  夏も終りになると、蝉が道路脇にポツリと落ちています。
手で持ってみると、まだわずかに動くものもあるけれど、ほとんどは動かなくなっています。
そこで、しげしげとその蝉を手に取って眺めるのですが、ものすごく不思議なのです。
このような形に誰が造ったのだろうか?それとも蝉自分自身の意思でこの形を造ったのだろうか?

今世界にいるどのように優れた人でも、この問いに答えることができません。

そこで、今この人間の世界で認識されているいろいろな法則を越えた、もっと別の次元の法則が
ある・・ということだと思います。

たぶん、この法則は、今の人間が生きている間には発見されることがないように思います。
それとも、仏陀が般若心経に示したように、無から有が生じ、有は無に変ずる、ということでしょうか。
しかし、この蝉の形がどう形造られるか・・という設計図は何も示されていません。
とても知りたい!
自分なりには、すべての形は「思い」により形造られる・・と考えています。

ただ、「思い」により形造られるにしても、その中に細かい設計図があったのか??

人が考え至ったのは、「創造主」がいなければ、この謎を解くことができない・・ということ
であったのか。
「創造主」は、考えられないほど細かいところまで設計をして正確に形造る・・・

それは、「美」そのものではないか・・と自分なりに飛躍した結論に至ってしまうのである。

物理学の最新の理論が発見されて、生命科学が発達して
「蝉」がなぜ形造られるのか?・・・という疑問に答えてくれるのか?

次元の全く異なる事柄・・・知りたいのに、全く知ることができない。
 

自然界の法則

 投稿者:ふな  投稿日:2004年11月19日(金)20時41分29秒
  自然界の法則・・正確に運営されるこの法則を誰が作ったのでしょうか。
人間は、その法則を発見して利用していますが、法則を創造することは決してできませんでした。
生き物にも、生き物でないものにも。また、膨大に大きいものにも、極小のものにも、狂いなく法則どおりに動かしているということは、不思議というほかありません。

この謎に満ちた世界を認識している自分がいます。
世界に70億人ほどの人がいるとすれば、全く同じものとして世界を感知している人は一人もいないはずです。あの人が憎かったり、このひとが好きだったりと、それぞれが別のことを思っています。この小さな好き嫌いというようなことから、個人々々の世界は、それぞれが別の見え方をしています。

さて、自分の世界は自分で認識しているから分かるけれど、人の世界は、その人の中には決して入ることが出来ないから、憶測するしかありません。
前にも書いたけれど、「自分の世界では雨が降っているけれど」・・「人の世界の中では、晴れている」・・・こういうことが起こってはいないのでしょうか!
多分誰でもが、そんなばかなこと・・と一笑に付すでしょうが、
ここは、ミステリーとしてでもよいけれど、常識をかなぐり捨てて、それはあり得るという発想を
してほしいのです。
そういう立場においては、いろいろな身の回りの出来事が、不思議な感覚で捕らえられてくるものなのです。
「ああ、これは自分の世界として起きていることなのだ」・・「人は全く別の世界に居るかもしれない」と思ってみることです。そうです、自分自身の世界は、宇宙の彼方まで広がっていて、それはもう自分所有の世界なのですし、他の人はそのように、やはり宇宙の果てまで広がる世界を持っているけれど、決してこちらの世界と交わることはないのです。想像で垣間見るだけなのです。

誰もが認める世界という固定した概念のものは無いということになります。
本当は、個人々々の世界が無数に寄り集まっているだけなのです。
( ̄~ ̄;) ウーン 、分かるでしょうか・・この世紀の大発見・・(-_-メ)
 

バークリーのことなど

 投稿者:ふな  投稿日:2003年 2月15日(土)13時32分46秒
  その、とんでもない話とは、むかし、何かでチラッと見た
ある哲学者の言っていたことが、妙に気になったことからです。
バークリーという18世紀のイギリスの哲学者ですが、

今見えたり聞こえたりするものは存在するが、
知覚されないものは存在しない!・・という考えです。

そうすると、今イラクが大量破壊兵器というものを隠し
もっており、北朝鮮がテボドンを打てるようにしている
・・という世界、これは、自分なりにテレビを見てそう
思っているけど、自分だけの世界なのかもしれない・・

そのように、皆が言い合っているのは、自分だけの思い込みで、
本当は、他の人は別の世界に住んでいるのかもしれない・・

自分は雨降りの天気の中にいるのに、
他の人は良い天気の中に住んでいる・・・

自分は自分の世界しか知覚できないから。
親しい人が、腹痛をおこしたとき、
その痛みは、気持ちではわかっても、
本当に実感することはできない。

他人の心の中は憶測はできるけれど、
中に入って、その本当の気持ちを自分と
同じように知ることは・・できませんね。

自分の世界は、はるか宇宙の果てまで広がって
いて、それは全部自分の世界なのですが、

同じように、他の人もその人自身の宇宙を所有
しています。

σ(^^)の宇宙と、その人の宇宙は共通点はあっても、
別々の宇宙と考えています。

もし、ぱったり突然死したら、宇宙はなくなって
しまい、死んだ後も宇宙がある、というのは、
その人が生きているときの思い込みだと思います。

生きている人には、それぞれに、宇宙が広がっている
のだと思います。

お釈迦様が、悟りを開いたときに、
このことに気がついたのだと思います。

で、お釈迦様は、悟りを開いた後に、
この教えは、とても難解だから、教えを説く
ことはやめよう・・と考えたと、
何かの本で読んだことがあります。

その難解とは、人には、自分の世界しかない、のだ、
というのが、入っていたのだと、σ(^^)は考えました。

それはそうですよね、とても誤解をされやすいことです。
自分だけの世界だから、好き勝手をやっても良いのだ・・
と、勘違いされたら、とてもたまりません。

でも、本当のところは、自分だけの世界が
広がっているのだと思います。

そう考えると、分かってくることがあると、
思いますが、どうでしょうか。

では、また次回・・


 

雨男

 投稿者:ふな  投稿日:2003年 1月22日(水)00時20分49秒
  ごぶさたしました。

哲学の小部屋を開いたのに、書き込みをしてなくて、そのままになっていました。
さて、先回は「世界」について書きましたが、
σ(^^)が書きたいと思っているのは、この「世界」についてだけ、です。

あるとき、
鵜飼見物を計画して、全国からお客さんがくることになっていたのですが、
どうも、当日は台風が近づき、天候が思わしくありません。
夜の宴会の弁当も鵜飼用にしてしまっているし、雨で中止になれば、
とても面目ないことになってしまいます。
「あー雨男なんかなぁー」と思ってしまいました。
そのとき・・
σ(^^)の世界には、雨が降っているけど、同じこの場所にいる人で、
よい天気の世界にいる人がいるんじゃないか?っと、
奇妙な考えがどこからともなく、ふっと浮かんできました。

普通考えて、そんな馬鹿な話はないですよね。
ところが、このほんのちょっと浮かんだ考えが、
この哲学の小部屋を開いた理由なのです。

その瞬間的に思ったことを、いろいろ考えていくうちに
とんでもないことに思いあたったのです。

そうそう、鵜飼は、雨・・台風もそれて無事に喜んでもらえました。

では、また・・・

 

世界とは

 投稿者:ふな  投稿日:2002年12月 1日(日)08時19分22秒
  ああ、のぶさん、自分でもこのコーナーへしばらく来てなかったので、
投稿してあるのに気づかず失礼しましたm(__)m

宇宙より広い世界が人間の内面に存在しているか・・という命題ですね。
σ(^^)は、広さに関しては同じではないかと思っています。

それでね、ブッシュさんには、ブッシュさんの世界があり、フセイン、金正日にもそれぞれの世界があるってことだと思います。
ただ、こういう言い方をすると、どこにでもある言い方で、何も珍しいことではないじゃないか、ってことになるでしょ。
これを世間の人はどう理解しているのでしょうか。それぞれ顔が違うように、考え方も違うんだよ!という言い方になりますよね。

さてさて、ここが問題なのです。
9.12の復讐のためにもフセインを何がなんでも葬り去りたいブッシュ。
湾岸戦争でのうらみが骨髄まで染み渡っているフセイン。
自分だけの贅沢な生活を続けたいために、植民地時代の日本を口実に、
今でも日本を脅し続けている金正日・・・

これは、σ(^^)の世界なのです。
客観的にそういう世界がある、と自分では思っているのですが、
まさに、それは自分自身の世界なのです。

もっと、突っ込んでいえば、
今の世界情勢を含めた世界は、今、自分が認識しているそのものですが、
自分が居なくなったら、世界そのものが、すっと無くなってしまう、
というものです。

世界がそのまま存続していて、自分だけが居なくなる・・・と思っている
のでしょうが、

自分が居るから、世界が存在しているのであって、
自分が居なければ、世界そのものが、存在しないのです。

はてはて、こんなことは、世間一般では通用しない話ですね。
自分がいなくても、ほれ、代々先祖がいて、世界が続いてきたではないか。
何をあほなこと言ってるのか、と怒られてしまいます。

そうそう、デカルトが「我思う ゆえに我あり」と言っていましたね。
デカルトは、これを世界最大の大発見のように思っていたようですが、
σ(^^)も、デカルトのこの言葉は大好きです。

さて、ブッシュがいて、フセインがいて、金正日がいるこの世界は、
自分自身の世界なんだ、と自分に言ってみてはいかがでしょうか?

いや、これは誰が何を言おうが、れっきとした客観的な世界なのだ!
と自分が言い返してくるでしょうか?

今日はこれくらいにいたしましょう。
ではまた、皆さまのご意見をお待ちしております。(^^)/~
 

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